2017年09月28日

チョイ住み in Rome 2

イタリアは世界遺産の宝庫で、その60%はローマにあるという。

起伏のある地形に、古代ローマの皇帝たちが築いた都市構造の上に
西ローマ帝国滅亡以来、中世の千年の眠りから覚め、
ルネサンス以降の教皇たちによってバロックの都市が作られる。

建築や美術の文化遺産の影には、
キリスト=カトリック教会の権威があった。

ルネサンスはメディチ家をパトロンとしてフィレンツェで始まったけれど、
後期は教皇をパトロンとしてローマで展開された。

ミラノのスフォルツァ家に仕えていたブラマンテが、
フランス軍のミラノ侵攻を機にローマへとやってきた。

4世紀初頭にコンスタンティヌス帝が、
殉教した聖ペテロの墓の上に建てた旧サン・ピエトロ聖堂を
教皇ユリウス2世が建て替える英断を下す。

ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂は、
ギリシャ十字に幾何学形態が立体的に繋がり、
中央に正半球のドームが載るブラマンテの計画案に

教皇パウルス3世の命に従った晩年のミケランジェロが、
構造的なプラン修正を行う。

tucasa_rome_ 3343_R.JPGクーポラのドラムの部分ができたところで、
ミケランジェロ自身は
完成を見ることはできなかったけれど、

1世紀以上の年月を掛けて、
材料を軽減できる二重リブ構造のドームの外観は、

自重に耐える紡錘形になったものの
内部の正半球の天井は実現された。

バロック最盛期のベルニーニをはじめ
荘厳な装飾や天井画と共に、
建築に携わった先人たちの技術の結集だ。

この下には教皇たちの石棺が置かれ、
そのまた下には、古代ローマ時代のネクロポリスがあるんだけれど、

大聖堂内は、教皇たちの墓碑で飾られ、
まるで彫刻美術館のようでもある。

tucasa_rome_ 3356_R.JPG数々の彫刻の中でも印象に残っているのが、
アントニオ・カノーヴァの二人の天使裸像。

ウィーンにあるマリア・クリスティーナ墓碑の
死を悼んで俯く参列に共通する表現力だ。

フランスとハプスブルク家のイタリア戦争と
政変のさなか、ミケランジェロは21歳の時に

故郷のフィレンツェを離れてローマに来て、
最初の傑作「バッカス」を制作する。

それを見た枢機卿が「ピエタ」の制作を依頼して、
25歳の時完成している。

tucasa_rome_ 3328_R.JPG聖母の若さは、
永遠の清らかさを表現したとのことだけれど、

唯一自分の名前を刻んだ
聖母の胸の文字は見えないほど、
遠くのガラスの向こうに佇む存在感は、

石から彫り出されたことを忘れてしまうほど、
作品というより体温を感じて惹きつけられた。

ミケランジェロが再びローマに呼ばれたのは、
ユリウス2世の廟の制作依頼だった。

制作の途中で、システィナ礼拝堂の天井画を制作するように強要される。

ユリウス2世はチェーザレ=ボルジアを失脚させた人物だ。

「天地創造」の天井画は32〜37歳の時に制作した。

ヴォールト天井の形状を生かしつつ、見上げる人の目線を考慮して
絵の一部が建築の延長のように錯覚させる見事さがある。

フレスコ画は漆喰を塗って、
濡れているうちに下絵から陰影などの細部まで
描ききってしまわなくてはいけない。

フレスコ画の師匠、ギルランダイオも内部装飾に参加しているんだけど、
壁に描かれたカーテンは、最初絵だとは気づかなかった。

今年は奇しくも、ルターが免罪符の発売に疑義を呈して
500年に当たるけれど、宗教改革やローマの劫略などの時代を経て、

今度はクレメンス7世がミケランジェロに
システィナ礼拝堂の祭壇画を描き換えるよう命じる。

後継のパウルス3世も祭壇画を切望し、
還暦を過ぎたミケランジェロは「最後の審判」を完成させた。

tucasa_rome_ 103_R.JPGこの礼拝堂の内部に
どれだけの時間留まれたのかは
定かではないけれど、

濃密な時間だったことは確かだ。

そういえば、ユリウス2世に
ヴァチカン宮の室内装飾や
壁画を依頼されていた

ラファエロが描いた「アテネの学堂」がある。

同郷のブラマンテが構想した大聖堂の景観を思わせる、
ルネサンスを感じる印象的なフレスコ画だった。

つづく。


司建築工房

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 大地の樹木 本物の素材 火のある生活

posted by Koji at 20:48 | TrackBack(0) | 建築ツアー
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