2018年07月01日

チョイ住み in paris 2

パリには紀元前3世紀頃すでにケルトのパリシイ族が
シテ島に集落を作って住んでいて、

カエサルのガリア征服時にはすでに金貨を鋳造して、
セーヌ河によって交易していた。

ローマ帝国時代、ケルト人が神々を祀っていたように
島の東側で祭祀を行ない、西側で行政が行われた。

西ローマ帝国が滅亡した後もこの配置は受け継がれて、
現在、島の東側にノートル=ダム大聖堂、
西側に裁判所やコンシェルジュリーがある。

コンシェルジュリーは、元々はカペー朝の王宮で、
14世紀末司法権を与えられた守衛(コンシェルジュ)に
管理される牢獄として使用され、

フランス革命後は、マリー・アントワネットらが投獄された。

このカペー朝からフランス王国だけれど、
三国に分割される起源となるフランク王国は、

西欧のキリスト教世界の政治的後ろ盾として、
西ローマ帝国滅亡後の中世世界を築いてきた。

遡ると元は多神教だったゲルマン部族のフランク王クローヴィスが、
ローマ=カトリックに改宗したことに始まる。

シテの名は、クローヴィスが首都(シテ)と宣言したことに因む。

8世紀ランゴバルト王国からラヴェンナを奪回した
ピピンの寄進によってローマ教皇領が本格的に形成され、

以降ローマ教皇は、教皇領を財源として
政治、経済の支配権を行使した。

カペー朝のフィリップ2世は、父の代からの
ノートル=ダム大聖堂の建設を引き継ぎ、

パリ大学の創設、道路の舗装や堅牢な城壁を建設して、
初代ローマ皇帝アウグストゥスに因んで、
オーギュスト(尊厳王)と評された。

一方でローマ教皇インノケンティウス3世の要請で
アルビジョワ十字軍を派遣し、南仏のカタリ派を徹底的に残滅した。

これによってフランス王権がプロヴァンスまで拡大し、
インノケンティウス3世は、叙任権闘争と十字軍運動によって
絶大な権力を握り、ローマ教皇領は最大になる。

キリスト教の歴史に当初から出てくる異端という言葉自体、
違和感を感じるのだけれど、

教会の腐敗・堕落を批判されると
自分たちに都合が悪いものには悪者のレッテルを貼って
消すことを正当化した。

tucasa_paris_1457_R.JPG独り言はともかくも、
フィリップ・オーギュストの城壁の遺構が
今もあちらこちらに点在している。

サン=ルイ島からマリー橋を渡ると
リセ・シャルルマーニュという

高校の校庭に残っていて、
円筒形の見張り塔もある。

サン=ルイ島から左岸に渡ると、
建物の横に存在感のある城壁が現れて、
先生に連れられて歴史探索している小学生たちと出会した。

tucasa_paris_1433_R.JPGノートル=ダム大聖堂前の広場の地下で、
古代ローマ時代の床暖房設備等の遺構が
発見されていて、

シテ島の左岸には古代ローマ時代の
劇場や闘技場跡が残っている。

3世紀のユリアヌス帝の浴場跡もあり、
それをクリュニー修道会が買い取って、

tucasa_paris_1446_R.JPG14世紀にパリの住まいとして建てられたのが
現在のクリュニー中世美術館で、
たまたま改修工事中だった。

14世紀初頭の城壁で囲まれたパリの市街図を見ると
サン=ルイ島はまだ無人だったようだ。

僕が20年前初めてパリを訪れて以来、
ルーブル宮殿の外壁に囲まれて、

中心にガラスのピラミッドのある広場の景色は、
ここでしか味わえないものがあるけれど、

元は12世紀にフィリップ2世がパリを囲む城壁の外に
セーヌ河を遡って攻めてくるノルマン人への備えとして
馬出のように要塞として築いたものだ。

今や紀元前の貴重な美術品をはじめとした世界の美術の宝庫だけれど、
当時は町外れの武器庫と文書などの倉庫だった。

パリには、他にもヴァンドーム広場やヴォージュ広場のように
建物の外壁で囲われた公共のリビングのような場所が幾つもある。

つづく。

司建築工房

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 大地の樹木 本物の素材 火のある生活

posted by Koji at 20:55 | TrackBack(0) | 建築ツアー
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