2018年07月10日

ル・トロネを訪ねて 1

中世キリスト教の歴史は、聖職者が権力と富を握り、
世俗的な欲望に囚われて堕落すると

本来の信仰を取り戻すために修道院運動が起き、
やがて改革が忘れられ、堕落していくという繰り返しだけれど、

6世紀にベネディクトがモンテ・カッシーノ修道院を作り、
寄進を受けず、奴隷を排して、労働を重視した生活を営み、

10世紀にクリュニー修道会、
12世紀にシトー修道会が生まれた。

8世紀頃から終末論が語られ、黙示録的心性が
11世紀末以降の経済発展による富によって、
免罪のための十字軍参加や大巡礼へと向かわせ、

修道会の隠修の努力によって、
内に宿す神への狂気とも云えるエネルギーが、
ロマネスクの芸術を作り出した。

クリュニー修道会は、多くの民族的な要素を収斂させながら、
寓意的な彫刻というイメージの言語を通して、
諸文化の息づく神学的宇宙観を数多く残し、

シトー修道会は、構造力学の制約の中で、
石のみで宇宙の秩序と調和を大地に映した。

tucasa_le thoronet_0793_R.JPGそのシトー修道会のル・トロネ修道院が、
最初の巡礼の目的地だ。

フランス各地に建てられた
ロマネスクの修道院はどれも、

都会の喧騒を離れた自然の風景の中にひっそりと佇んでいる。

その土地から掘り出された石でできた建築が
風景の一部となって、それは僕の理想の建築だし、
どうしても見たいものほど僻地にある。

プロヴァンス三姉妹のご長女さまに会うためなら
苦労は厭わないけれど、

自給自足の隠修に相応しい場所として、
人里離れただけではなく、小川が流れ、
泉が湧くヴァールの丘を開墾して建てられた。

特に水利が考えられ、飲用に適した水質を持つことと
灌漑に用いる水は不可欠だった。

クリュニーとシトーという二つの修道会は、
ブルゴーニュ地方で生まれたけれど、

ワインの王様と称されるブルゴーニュの葡萄畑は、
そのほとんどがシトー会修道院の開墾によるもので、

地質学や土壌学、気候学の裏付けから研究を重ね、
味と香りの品質を生み出すクリマを獲得していった。

諸侯や豪族は、争って森林原野を修道院に寄進し、
かつての修道院付属屋では、農機具の発明や改良も行われ、
農業経営と経済の発展に計り知れない寄与を成し遂げた。

ブルゴーニュ地方とプロヴァンス地方は、
ローマ時代から石工の技術の継承と良質の石材に恵まれ、
洗練された表現を持っていた。

もっともプロヴァンス地方は、紀元前からすでに
ギリシャ人がマッサリア(マルセイユ)に都市を作り、

1世紀の終わりからは古代ローマがこの地方一帯を
属州(プロヴァンキア)として統治したから、

tucasa_le pont du gard_1249_R.JPGオランジュの古代劇場や
アビニョンの西に古代の水道橋
(ポン・デュ・ガール)など

至るところに、巨石を積み上げた
古代遺跡が現存し、ローマと
ガロ=ロマン文化を窺い知ることができる。

この地方では8世紀頃まで
ローマの生活習慣や教育制度が維持されていたという。

ル・トロネは、土地の赤褐色の土の色と同じ色をした切石でできた、
彫刻による立体感はなく簡素で、
親しみの持てる高さで、温かく迎えてくれた。

建物の西側の側廊にある入口は、
かつては俗人を入れない修道士だけの入口だったから、
タンパンなどなく素朴で、

入口の前で、聖堂の中の暗がりに、

tucasa_le thoronet_1465_R.JPG側廊突き当たり正面の
組紐文様のステンドグラスが黄色く浮かんでいて、
すっかりご長女さまに心奪われてしまった。

階段を4段降りて側廊があり、
北へ3段降りて身廊で、

この3段分の高低差が
翼廊ではレベルが一緒になっている。

つまり側廊はスロープで、
身廊と側廊の高低差がベンチのようになっていて、
こうした高低差だけで、様々な空間変移が感じられる。

内部で7段下がって、アーケードも尖頭アーチになっているからか、
想像していたより天井が高く感じた。

つづく。


司建築工房

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 大地の樹木 本物の素材 火のある生活


posted by Koji at 21:33 | TrackBack(0) | 建築ツアー
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