2019年03月27日

スペシャルツアー in Kyoto 1

春分が過ぎ、桜の開花に先駆けて
沈丁花の香りとコブシの白い花、
トサミズキの黄色い花が庭に咲き誇っている。

G・ゴルターマンのチェロ協奏曲第4番の演奏が無事終わり、
先週からうちに来ているハワイの建築家を京都に案内した。

まずは仁和寺へ。

平安時代初期、最澄の延暦寺と空海の金剛峰寺から80年後、
宇多天皇が出家して阿弥陀三尊を置き、落慶供養して以来、
明治時代に至るまで、代々皇族出身者が門跡を務めてきた稀なお寺だ。

阿弥陀は密教から浄土教への変遷で生まれ、
国家社会の安泰を願う薬師如来から
個人の来世を祈念する阿弥陀信仰が根底にある。

tucasa_ninnaji_2364_R.JPG室町時代の応仁の乱でほとんど消失し、
当初の建物は何一つ残っていないけれど、

宇多天皇が先帝の光孝天皇の
後世を祈るために作らせた
等身大の阿弥陀三尊像は、

お経の版木などと共に避難させたので、
貞観彫刻に慈悲の表情を加えた姿を今に伝える。

江戸時代3代家光が、今で換算すると300億円もの国家予算を
皇室ゆかりのお寺に投じる英断を下し、再建した。

二王門は家光の寄進によるという。

tucasa_ninnaji_2503_R.JPG御殿は、白書院や宸殿を渡り廊下で繋ぐ
寝殿造りで、平安王朝を思わせ、

宸殿の前庭には右近の橘・左近の桜もあり、
京都御所のような雰囲気で、
まさに御室御所だ。

たまたま宸殿の檜皮の葺き替え工事のため、
天皇専用の勅使門が開いていて、枯山水の庭に板が敷かれていて、
天皇目線で白書院を眺めることが叶った。

tucasa_ninnaji_2496_R.JPG檜皮葺きは、浸み込んだ雨水を乾かすため
野地板を張らずに、
直接垂木に施工することが目視できた。

霊明殿は、燈明のデザインに至るまで
皇室の紋、十六八重表菊だ。

この扁額の文字は、先の大戦が開戦した頃の
内閣総理大臣、近衛文麿によるのもので、

tucasa_ninnaji_2479_R.JPG天皇がGHQに処刑されるのではないか
という状況下、天皇に出家して
仁和寺の門跡を務めて頂くことで

免れようとしたという
余り知られざる逸話がある。

江戸時代に植えられた御室桜は遅咲きだから
時期早々なことはわかっていたけれど、

京都市内のソメイヨシノもまだ蕾が固くて、
背丈の低い枝振りの御室桜の林が整然と出番を控えていた。

さて、この御室桜と霊明殿の間の木立の中に
渡り廊下からでも殆ど見えないような窪地に
ひっそりと遼郭亭が佇んでいる。

tucasa_ninnaji_2424_R.JPG仁和寺の門前にあった
尾形光琳の屋敷を移築し、

この地に窯を開く
弟の乾山のためとも伝えられ、
光琳がデザインしたことは間違いないらしい。

ルネサンス期のミケランジェロなどのように
絵を描き建築も設計するマルチな芸術家像が浮かんでくる。

強度のために長めの苆が散らされた土壁に
丸竹と葭の光琳窓が穿たれ、

杮葺き屋根の微妙なムクりとそりと膨らみが
素朴な中にも柔らかな品格を醸し出している。

二畳半台目の茶席の床脇に三角形の板を置いて、
亭主と給仕の動き易さと視覚的な広がりを与えている辺りは、
まさに如庵の写しだけれど、

躙口前の袖壁の光琳窓が如庵の丸に対して
ここでは内部と統一した四角なのと
茶室内部の黒っぽい錆壁の色の深みと表情がたまらない。

広間も水屋の間も同様のこの錆壁は、
実際の火事現場から得た焼土を油で練って、
長い苆を散らして、沈んだ風合いを作り出したらしい。

光琳の大胆な色彩感覚でありながら
色調と配色のバランスを取り、

石垣張りの障子や変化をつけた天井も含めて、
全体として繊細な印象を与える。

ここは生活空間だったから、光琳絵画に見られる
緊張感を伴った非情の空間ではないけれど、

平安王朝から桃山まで貴族文化の伝統を継承してきた上方で展開した、
おおらかな町人文化が花開いた5代綱吉の治世、
元禄期の粋な美意識が伝わってくる。

北から東にかけての濡れ縁からの庭の景色は、
土手面の苔と樹木の中に、
岩が砕けて転がった石の風情を見せていた。

ハワイの建築家もこの茶室が今回一番印象に残ったようだ。

つづく。

司建築工房

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 大地の樹木 本物の素材 火のある生活

posted by Koji at 23:19 | TrackBack(0) | 建築ツアー
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